正岡子規とは 正岡子規の代表的な短歌などを紹介




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正岡子規とは?

正岡子規は、現在の愛媛県松山市に当たる伊予国温泉郡で松山藩士の正岡常尚と妻の八重の長男として、18671014日に生まれました。

しかし、正岡子規が5歳のときに父親が亡くなり、家督を母親の実家の大原家の貢献によって相続しました。

小さいときは、松山藩の藩校の明教館の教授であった祖父の大原観山の私塾で漢書を学んで、小学校に入った後は戯作や漢詩にも関心を示して、現在の松山東高校に当たる旧制松山中学に明治13年に入りました。

この後は旧制松山中学を受験するために中退して、現在の開成高校に当たる共立学校に入って、東京帝国大学哲学科に東大予備門から進んで、次の年に関心があった国文科に変わりました。

この頃の同級生や友人としては、夏目漱石、海軍軍人で日露戦争で活躍した秋山真之、菌類学の南方熊楠などがいました。

正岡子規は大学を明治25年に中退して、叔父の加藤恒忠に紹介されて「日本」の新聞の記者になりました。

本格的な正岡子規の文芸活動がここから始まりましたが、この前の明治284月、中国に日清戦争の従軍記者として渡って取材を始めました。

しかし、すぐに日清戦争が終わって、その年の5月に帰国しましたが、船の中での大量の吐血によって重体になり、帰国して神戸の病院にすぐに入院して、須磨の保養施設でそのまま療養して松山に帰りました。

松山に帰ってからは教師で赴任していた夏目漱石の下宿に上がって、俳句会を開いて俳句の研究に没頭したりしました。

自分が吐血したことによって、自分と吐血するまで鳴き続けるホトトギスを重ね合わせて、俳句雑誌の「ホトトギス」を明治30年に創刊し、自分の俳号にホトトギスの漢字表記の「子規」を使って、正岡子規と名乗りました。

正岡子規は松山に帰って俳句研究に精力的に打ち込みましたが、脊椎カリエスが明治29年にわかり、外科手術をこの後に何回も受けましたが、病状が悪くなって歩くことも難しくなりました。

亡くなるまでの3年間はほとんど寝たきりでした。

しかし、文芸に対する正岡子規の情熱は病気にも屈しないで、「歌よみに与ふる書」を明治31年に「日本」の新聞紙上で発表、江戸時代までの形式的な和歌を自分が主宰する根岸短歌会で否定し、短歌の改革を促しました。

しかし、正岡子規は、約7年もの闘病生活の末、明治359月、34歳で亡くなりました。

正岡子規の代表的な短歌とは?

ここでは、正岡子規の代表的な短歌についてご紹介します。

「くれなゐの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる」

この短歌の意味は、「紅色に咲く薔薇の新しい芽が約60cmも伸びて、春の雨がそのやわらかい針に降っている。」ということです。

いかにも暖かくて優しい感じがするでしょう。

針と薔薇のトゲをいうのも面白いでしょう。

いずれも、痛くて刺さるものです。

そして、針のような雨と表現されるときもあり、この辺も掛詞になっているのでしょう。

見たままに見たものを詠んで、まるでその光景を見たような気持ちに短歌を詠んだ人もなれる、というような短歌を正岡子規は目指して、これを「写生」といったそうです。

「松の葉の 葉毎に結ぶ白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く」

この短歌の意味は、「露が松の葉についており、露がしずくになってこぼれては、丸くまた溜まっていく。」ということです。

白露は、一般的に儚いすぐに消えてしまうものの例えとして使われますが、この儚いものも消えてはまた生まれるのであると正岡子規は自然の姿を詠みとっています。

「人も来ず 春行く庭の水の上に こぼれてたまる 山吹の花」

この短歌の意味は、「春の終わりの誰も来ないような、庭の水たまりか、手水鉢かがあるのでしょうか。この水の上に散って落ちた山吹の鮮やかな黄色が、寂しい庭を慰めてくれているみたいですね。」ということです。

「瓶にさす 藤の花ぶさみじかければ たたみの上に とどかざりけり」

病気で正岡子規が寝ているため、瓶に藤の花を家族が活けてくれたのでしょう。

この短歌の意味は、「ふっさりとこの花の房が垂れていますが、畳につくことはないくらいの長さであるとわかったのは、寝ていたために目線が低かったおかげなのでしょう。病気であるためわかることもある。」ということです。

「足たたば 北インヂヤのヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを」

この短歌の意味は、「足さえ立つと北インドのヒマラヤ山脈のエヴェレストにある雪を食べたいものだが。」ということです。

「足たたば」から始まる和歌は多くあります。

カリエスという病気で正岡子規が歩けなくなったのは30歳であり、やりたいことや行きたいところも多くあったでしょう。

しかし、「雪を食べてみたい」というのが、食いしん坊であった正岡子規らしくて気持ちが微笑ましくなるでしょう。

病気のために暗くなる中でもユーモラスがある正岡子規が詠んだ短歌であるため、現代でも親しまれているのでしょう。

正岡子規に関する本とは?

ここでは、正岡子規に関する本についてご紹介します。

「歌よみに与ふる書」(著者は正岡子規)

「歌よみに与ふる書」は、明治31年に発表されたもので、和歌の聖典に「古今集」をしてきた歴史が千年近くもある価値観を覆した衝撃的な歌論でした。

正岡子規の歌論は、現実写生の原理を究明し、万葉の歌風を重んじたもので、和歌に対する改革への情熱が全編に漲り、現在でもなお我々を打ちます。

「あきまろに答ふ」「曙覧の歌」「人々に答ふ」「歌話」が一緒に収められています。

「子規歌集」(著者は土屋文明)

正岡子規の歌風は、短歌に俳句革新運動における写生論を適用して、明治短歌革新の急先鋒に立って、自由に多用な題材を歌っています。

全歌集の「竹乃里歌」から八百四十首の短歌、六首の旋頭歌を厳選した正岡子規の歌集の決定版です。

正岡子規のエピソードとは?

真偽のほどはわかりませんが、ここでは正岡子規のエピソードについてご紹介します。

エピソード1

正岡子規が東京帝国大学の哲学科から国文科に変わったのは、夏目漱石の友人の米山保三郎と話をして全く哲学がわからなくて、自分には哲学が向いてないと考えたためであるといわれています。

また、英語が非常に苦手で、いつも試験ではカンニングしていたそうです。

東京帝国大学を最終的に中退したのは、大学での勉強と正岡子規が学びたいものが噛み合わなかったためでしょう。

エピソード2

月並みという言葉の意味は、もともとは月ごと、毎月ということで使われていましたが、つまらない短歌や俳句を正岡子規が月並み調と批評したため、月並みという言葉が平凡な、陳腐なという意味でも使われるようになったそうです。

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